ウインドコンサートはこうして始まった |
前年(1978年)、初めて校外(守口市民会館)で定期演奏会を開催したが、それはかなり無理があった。 創部20周年という理屈をつけたのは良いものの、「ではなぜ守口市民会館で開催しなければならないのか」。部員たちにとってみれば、「メジャーになるには、寝屋川市民会館では駄目だ」という本音であったが、理屈としては「寝屋川市民会館は音響が悪くて使えない」などということで押し通していた。 学校側は、特に「定期演奏会」という言葉にこだわった。つまり、「毎年、こんな金のかかることを派手にやられてはたまらん。去年は例外措置だ」というわけだ。 しかし、顧問の今村先生粘り強い交渉の末、なんとか開催できる見込みとなった。 ところが、それには厳しい条件が付けられた。 1.定期演奏会は許可しない。 2.翌年度以降は、その都度、職員会議で審議する。 その結果、部員たちが編み出した術は、「固有名詞のコンサートにしよう。そして、毎年頑張って、事実上の定期演奏会にしてしまおう」というものであった。「ウインドコンサート」という名称は、こうして名づけられることとなった。 |
■当時は有料チケットも問題視された■ ![]() ※ 結局無料扱いとなり、以後、チケット利用はなくなっていく。 ■なんとか開催にこぎつけた(1979年2月17日)■ ![]() |
コンサート当日は雨にもかかわらず、千人を超える盛況ぶりで、立ち見のお客さんが出るほどであった。 部員たちは、それまでの困難を吹き飛ばしてくれるかのごとく、大きな拍手に報われ、感動を得た。 祝福された寝屋高ブラバンとウインドコンサート。しかし、当時の部員が「寝屋高の育ての親」として心から信頼していた服部氏にとって、この第1回ウインドコンサートは「最初で最後のウインドコンサート」となった。 その後、寝屋高ブラバンとウインドコンサートは、幾度もの危機を経験しながらも、さらなる躍進をしていくこととなる。 |
■第2部でサックスを吹く服部氏■ ![]() ※ ビッグバンド風の譜面立てにご注目 |